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【占術の当りはずれ】佐藤六龍著

午後から雨になりそうな東京・渋谷地方です。
みなさまのところは、いかがでしょうか。

ここ数日急に涼しくなってきました。

渋谷の街では、薄手のダウンベストを着た方を見かけます。
暖まりたいのか、うどん屋さんには行列も。







初めてデジタル一眼レフカメラを手にしたのは、
2006年でした。
広角レンズと望遠レンズがセットになった
入門者用のお手軽な機種だったと思います。

その望遠レンズが気に入っていて、ずっと使い続けてました。
今年の初めにレンズ表面にニジミのようなヨゴレを見つけました。
性能もアップしているであろう最新のものに買い換えも考えたのですが、
結局もう少し使いたくて修理に出しました。

まだしばらくは使えるだろうと思っていたのですが、
今度は、オートフォーカスがきかなくなってきました。
ピントをマニュアルフォーカス(手動)で合わせればいいだけのことなのですが、
10年来の友が年老いていく感があってさびしいです。
(レンズのことばかり言えませんが)(笑)
















【占術の当りはずれ】

(季刊「五術」昭和63年12月号掲載文から抜粋)

佐藤六龍著






占術を研究していて、「当る」という定義ぐらいむずかしいものはありません。冷静に考えてみてください。一体、なにを当るというのでしょうか?先日も講習会の席上で、ある術の原則を述べましたところ、日頃から佐藤は理論だおれのヘリクツ屋と言っている講習生から、原則や理論はともかく、それは「よく当りますか?」と問われたのです。

私はいつも、占術に限って「当る」という事象がはっきりとわかるのは、妊娠前に占う男女占以外はないという考えをもっています。よい年といわれよい運だった!凶(わる)いといわれ事故にあった!もうかるといわれ、確かにもうかった! ―― と一般にいわれている当った事象の不確かさを考えてみたことがあるのでしょうか?

占術以外のものは、その当否の定義がはっきりしています。医学は細菌を中心にみますからはっきりします。株などは、上った下ったは、当人の持っている株価を中心にいいますから、上下やもうけがはっきり定義づけできます。

しかし、占術にいたっては、もうかるといっても、一体いくらもうかるのをいうのか不明ですし、もうかった金額に対してのかかった費用の点もはっきりしません。

一億投資している人が、その年に財運ありという占断に、一億一千万収入があった時、当ったのかどうかは非常に疑問です。二百万の投資の人が一千万の収入ならこれはもうかったといってよいでしょう。

このように占術の判断の定義づけが非常にむずかしいのです。昔の占術者はこの点を明確にとらえています。〝

「占断に当る当らないは絶対にないと考えよ。ようは客が納得するのが当り、不納得がはずれである」 ―― けだし名言であります。職養道を教えてくれた先輩が言った言葉です。

確かに「当る」という定義があいまいなのですから、相手の納得いかんにかかっているという事を、昔の人は見ぬいて、お客が納得した判断が当り、不納得がはずれと明確に定義づけたわけです。おそらく、読者からは異論が出るでしょうが、私はこの説をとります。
占断事象を、どう言うかによって、相手の受けとり方が違うのですからいたしかたありません。医学(西洋)のようなものは、当人の苦痛はともかく、顕微鏡なり検査数値をはっきり出すのですから、納得度は関係ないのです。

前にも五術誌で書きましたように、東大教育学部女子37人の血液判断に、当人とちがった血液型判断をしめし、五項目のうち三項目以上、当っている(この場合自分が納得したという意)人は、というのに対し、33人まで当っているといったそうです。つまり、33人が判断を納得したのです。しかし、定義上からいえば、まちがっている血液型をしめしたのですから当っていないのですが、当人は納得したから、「当った」というのです。
つまり、「当る」などという言葉は、占術上ではこの程度のはかないものなのです。占術研究家にとって、実になさけない、くやしいことですが、少なくとも、占術の事象に定義づけができない以上、いたしかたないのです。

そこで、私の結論、定義づけがはっきりできない判断事象は、当否は神以外知るところでない、という大変な結論が出てしまうのです。そうなると占術のよしあし、占者のよしあしはどうなるか、ということになります。

占術の事象の定義づけがはっきりしないのですから、占術・占者のよしあしは、どこまでも常識上からみた点が云々されることになります。つまり、占術としての理論か常識上からみてしっかりしている事。その理論に矛盾が少ない事。占術側からみた事象にできるだけはっきりした定義づけをしてある事。

以上の三点でもって、前述のあいまいさをふせぐことができると思います。

ですから、私は占術側からみた事象に定義づけができない時は、理論なり法則なりがしっかりしておれば、その占術は事たれりとし、当りはずれはこの次と考えます。度々書きましたように、これはいたしかたのない事なのです。

この占術側の事象の定義づけを具体的にいいますと、次のようなことです。例をあげますと、

五術上では、人の財運とは、あくまでもその人が汗水たらして働いたものを財とし、それ以外のは財とも物質運ともいわない ―― これが、占術側の事象(財・物質運・金銭運)の定義づけです。

ですから、儲かるかどうかという点は、いくら儲かったのをいうか定義づけがはっきりしませんから、今年の財運の吉凶などは当否があいまいになります。しかし、その人の命をみた場合、汗水たらした財という定義づけがありますから、少くとも財運の有無ぐらいはわかります。

ところが、占術で一番用いられている性格判断にいたっては、まったく性格の定義づけがされていませんから、当否はまったく相手の心情次第という事になります。気が長い、短いなどは何を基にいうか、まったく見当もつきません。昔の人がいう、納得した判断か不納得の判断か、だけの違いで、占術でいう「当り・はずれ」とは縁もゆかりもないのです。

私がいつもいう、理論面がしっかりしていない占術はだめだ、かりに当った(と言っていても)としても、それはまったく無意味だというのはこうした点からです。

透派五術は、理論面がしっかりしているため、とかく理論一点ばり、理論だおれ、理論より実占がいい、 ―― などの中傷が聞かれますが、前述のような点を十分に理解したら、こうした見当違いの批判はないはずと考えるのですが……。



















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