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【透派ものがたり】(2)佐藤六龍著


今週から学校が始まったようですね。

駅までの通勤路が、小学校の通学路になっています。
ここしばらく、ひと気が無くて、スイスイ走っていた道路に、
子ども達がワサッと増えてました。

スクーターを子ども達にぶつけないようにと気をつけて走るので、
事故防止に一役買ってもらっていると思っています。

ただ、アットランダムにふざけながら動く子どもが、たまに車道にまで
踏み込んでくることがあるので、要注意ですね。

学校が、楽しい場所でありますように。

















【透派ものがたり】(2)


(季刊「五術」平成27年9月号掲載文から抜粋)

佐藤六龍著




陳希夷は、もとは地方の豪族の生まれであり、なにひとつ不自由なく育ちました。あらゆる師につき学び、充分な読書をする機会に恵まれていたのです。

陳希夷が十代のころ、希夷の父親の友人に、布衣道人という仙人がいました。この布衣道人は、よく希夷の父親と酒をくみかわしたり、棋をさしたりする仲であり、この道人は希夷を非常にかわいがりました。

希夷が十六歳になったときに、こうした環境のせいか、または生まれながらの傾向なのか、科挙(中国の官吏登庸試験)をきらって、布衣道人について仙道を学びたい、と言い出したのです。希夷の父親は、こうした点では理解があり、別に反対せず、「なんでも、まじめにやるなら、なにをやってもよい。あとはお前しだいだから……」と、簡単に息子が科挙を断念することを許したのです。

希夷はこの布衣道人について、静座法を練習し、いろいろの仙道を学びました。

ここで言う仙道とは、〝からだ〟と〝こころ〟をきたえるものであり、けっして不可思議な魔術の類いを指すのではありません。仙道を習得しますと、からだが強くなり、心の悟りがひらけてきます。

心がゆったりし、身体が丈夫になった希夷を、布衣道人はある日、貧民街へ連れ出しました。この貧民街は布衣道人がよく来る所で、希夷の父親のような金持ちから金をせびっては、こうした所で病気に苦しむ貧民に薬を与えていたのです。

美しい衣服をまとった希夷は布衣道人に連れられて、汚らしい貧民街を廻りました。外見は豪族の身なりの息子であっても、仙道によって悟りをひらいた希夷には、貧民街も、さほどとりたてて言うほどの汚らしさは感じませんでした。 

布衣道人は貧民の家を一軒一軒と廻り、病人があれば、やさしく手をとり、脈をはかり、診察した後に薬まで与えていきました。ある家では、病人が一人だけでなく、二人も三人もいました。しかし、そのように道人が忙しくても、希夷は手をこまぬいて見ていなければなりませんでした。というのは、希夷は仙道(山)は出来ても、医術(医)がぜんぜん出来ないからです。

貧民街の病人の中では、希夷は単なる布衣道人の足手まといにすぎません。希夷は自分のいたらなさを深く恥じるようになり、他人の病気ひとつ救えないで、なにが仙人だ、と深く反省し出したのです。

診察が終わって、布衣道人と希夷が外へ出た時、向こうから葬式の行列がやって来ました。行列の人々は皆、大声で泣いています。行列が二人の前まで来た時、道人はその行列の中のある人に、尋ねたのです。

「どなたじゃ、他界されたのは」
すると、行列の中から三十ぐらいの男が涙声で答えました。「家内です。産気づいてなかなか生まれず、さんざん苦しんだあげく死児を産みましたが、母親の方も出血がとまらず、亡くなったのです」

布衣道人は棺桶をじっと見つめてから、言いました。

「救けてしんぜるから、早く家へもどすがよい」
「えっ、死んだ人でも生き返るのでしょうか」
と、男はびっくりしながらも、道人に言いつけられたとおり、棺桶を家にもどし、死んだ妻を床に移しました。

そこで道人は、女の身体に針を刺し、それから、もぐさの灸を始めました。すると、その女は息を吹き返しました。すかさず道人は、煎じた薬を飲ませました。女はやがて、子供のことを口走るぐらい元気になったのです。
喜びと感謝の言葉を背に受けながら、道人と希夷は帰途につきました。

しかしながら、希夷はどう考えてもわかりません。いくら「山」(仙道)でも「医」(医療)でも、死んだ人間を生き返らせるなどということは、できないと思ったからです。たまりかねて、希夷は道人に尋ねました。

「先生、どうしていったん死んだ人間を、また生き返らせることができるのですか」
道人は静かに笑いながら答えました。

「棺桶から血がポタポタと落ちていたから、まだ死んではいないとみたのじゃ。人が死ねば血は流れぬ。あの女はただ出血が多すぎて気絶したにすぎぬ。だから針を刺し、さらに灸をし、薬を飲ませ、生き返らせたのじゃ。しかしながら危ないところであった。今日、我らがあの行列を見かけなかったら、生きている人間が一人生き埋めにされるところだった。まったく医道を知らない人たちは仕方がないのう……」

希夷にとって、この道人の言葉は、自分に対する皮肉のように聞こえました。「医道を知らない人たち」という言葉が、深く希夷の心を刺したのです。

その日から、希夷は道人につき、『傷寒論』という書から多くの「医」(治療術・方剤)を学びとりました。根っから素質のよい希夷は、道人に劣らず、めきめきと医道の腕をあげました。  

以下次号
















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